|
夏の終わりのイルジオン 増田 淳/作 1 ぼくはいまでも思い出す。夏の終わりにであった友だちのことを。 2 「出てくる」 ぼくはそれだけ言って家から飛び出した。 背後で「……気をつけてね」という母さんの声。こわがるような、ためらうような、言いたい事を我慢しているような声。 言いたい事はわかってる。「ちゃんと学校にいきなさい」。いや猫なで声で「ほんとはできる子なんだから自信をもって」かもしれない。 そんな言葉、あきあきだ。 気にせず家を出て、安っぽい家ばかり並んでいる住宅街を抜けていく。 今日はなにをしよう。 本をずっと読むのも、ゲームをやるのもあきた。ぼくみたいな境遇のやつはたいてい家にこもってゲームとかインターネットやってるらしいけど、あんまり興味がもてなかった。 暑い。まだ蝉の声がする。なぜだか蝉の声をきいてるだけで腹が立ってきた。でも家の中にもどるのはもっと嫌だった。 曲り角の向こうから、自転車に乗ったおばさんがやってきた。近所の人だ。ぼくをちらっと見て、すぐに顔をそらす。急いで去っていった。 ぼくはおばさんをにらみ付ける。 おばさんの今の視線は、「かわいそうな人」を見るものだった。ふざけないでほしい。ぼくはかわいそうなんじゃない。学校に行けないんじゃない、行かないんだ。ああいう下らない人たちにもう混ざっているのが嫌になったんだ。 にらまれてることに気づいたそぶりもなく、おばさんは走り去っていった。 ますますいらいらした。うつむいて早足で歩き出した。少しでもここから遠くへ逃げ出したかった。 歩きながら、心の中で悪態をついた。 あいつらなんて。 ぼくが学校でどんなめに遭っているか知ろうともしなくて、助けてもくれなくて、ただ「がんばれ」「負けちゃ駄目だ」しか言わない人たちなんて。がんばれないから困っているのに。それもわからない人たち。 学校にいくことをやめた時、すごい解放感があった。もうあいつらと顔をあわせなくて良いんだとわかった時の喜び。ドアの外からがんがん叩く音も、ご飯のたびにきかされる説教も、少しわずらわしいだけで大した問題じゃなかった。学校行かない日が一週間二週間つづいて、一か月になると、説教はなくなった。かわりに父さん母さんは、少しおびえたような眼でぼくを見るようになった。そしてぼくのいないところで激しく喧嘩するようになった。寝たふりをして聴いていたからよく知っている。「あの子がああなったのはあんたがしっかりしてないからよ!」「お前が厳しく言わなかったからに決まってるだろうが!」 もちろん次の朝にぼくが顔を見せると、母さんはむりやり笑顔をつくっておはようって言う。喧嘩のことなんて隠したまま。 吐き気がしそうだった。 学校に行かないと、辛い事でも我慢しないと、ちゃんとした大人になれないってよく言う。世の中を渡っていけないとよく言う。 でも、「世の中」「ちゃんとした大人」がどの程度のものか、ぼくはよく知ってる。 3 汗が目に入った。その痛みでわれにかえった。 いつのまにやら、ぼくは坂道をのぼっていた。相変わらず同じような形の家が、坂の両側にならんでいる。 そういえば坂の上に公園があった気がする。そこでぼうっとしていよう。 公園についた。 小さな公園だ。遊具がいくつか並んでいた。バネつきのやつ、いかにも古そうなブランコもあった。あとはツツジが適当に生えてるだけ。子供も、犬の散歩してる人も、誰もいない。でも眺めはよかった。住宅地をうまいぐあいに見下ろせた。 少しだけ気分が安らいだ。 ちっぽけだ。ぼくが「ならなくちゃいけない」らしい「ちゃんとしたニンゲン」が、あの狭くてちっぽけな街の中にうじゃうじゃひしめいてる。 でも……疲れたな。ベンチないかな。 あたりを見回した。 大きな樹の下に青いプラスチックのベンチがあった。 女の子が座っていた。 白と紺色の鮮やかなセーラー服が、まず眼に飛びこんできた。とてもスカートが長い不思議なセーラー服だ。肩に届くくらいの、金色に光る髪。ひかえめにベンチにこしかけて、分厚い本を読んでいた。 他に荷物は何も持っていなかった。 どうしてだろう、ぼくは女の子に近付いた。 不思議だった。いつもならできない。知らない人だからぼくをいじめるはずはないけど、でも「きっとぼくのこと分かってくれないに決まってる」って思う。 でもこの時だけは、吸い寄せられるようにぼくは歩み寄って、言った。 「……本、すきなの?」 ぼくは自分の口から出た声に驚いた。なんてことを言ったんだ。きっとばかにされる、いつもみたいにばかにされる。 驚いたのは女の子も同じらしかった。本から顔をあげて、青い眼を丸くしてきょろきょろ。 ぼくと目があった。 「……あなたね?」 柔らかい声で女の子が問いかけてくる。 「……ほんとよね、いま、話しかけてくれたわね? 話しかけたの、あなたね?」 まだ眼を丸くしたまま。「信じられない」って戸惑ってる感じで。 ぼくはうなずきながら小声で、 「う、うん」 そのとたん、女の子の顔がぱあっと明るくなった。 「やっぱり! ありがとう! 話しかけてくれて! さ、ここに座って」 「え……あ、うん」 うんとは言ったけど、ぼくは動けない。 女の子は本を脇において、ぼくに視線を向けたまま喋りはじめた。 「ほんと嬉しかった。ずっと本ばっかり読んでから、さすがに退屈しちゃって。ね、話し相手になってくれないかな?」 「あ、あの……どうしてぼく?」 「いや? 話したくて声をかけたんでしょ?」 「ぼくにもよく分からなくて……それにぼく、話せる事ってなにもないし」 「うーん」 眉間にしわを寄せて腕組みする女の子。すぐにまた明るく笑った。 「大丈夫! どんな話でもきいてあげるから。っていうか、私に話しかけてくれる人ってほとんどいないんだ」 そう言って微笑んだ女の子は、たしかに笑ってはいたけどさびしげだった。 そう言われてみれば。いまはもう9月。学校は始まってるはずなのに、どうして公園なんかにいるんだ。授業はどうしたんだ。 「きみも……?」 うわ、まずいこと言った。きっと嫌われる。 でも女の子は笑顔のまま、 「そうよ。私も学校行ってないの。いろいろあったから」 このひと。認めてくれた。当たり前のことみたいに。怒らなかった。ふんと笑うことも、「この人かわいそう」っていう眼をすることもなかった。こんなひと今までいなかった。 ぼくは、また吸い寄せられた。 ぺたんと、女の子のとなりに座る。 こっちを向いた女の子が、 「何から話そっか?」 「なんだろう……」 ぼくはたぶん、もじもじしていたと思う。顔をまっすぐ見つめるのがやっとだったと思う。女の子はふと真顔になって、 「じゃあ私の事から話すね。私は……ほら、外国から来たから、日本の学校ではなじめなくって。口きいてもらえなかったり、机に落書きされたり、教科書とかお弁当をトイレに捨てられたり、いろいろあったの。……きみも同じ?」 「う……うん。同じ」 どうしてこの人は、はっきり自分の事を話せるんだろう。ぼくは口に出せないのに。どうせ「どうして抵抗しない!」って怒られるに決まってるから何もいえないのに。 「そっか。きみも同じなんだ?」 女の子は、真剣そのもの、という表情を崩した。えくぼをつくって微笑んだ。 ぼくは思わず、普段なら絶対いわなかったようなことをいってしまう。 「……お、親とか、うるさくない?」 「親?」 女の子は一瞬だけなにかをこらえるような表情になった。すぐに笑顔に戻る。今まで以上の。見ているだけで心が軽くなるような。ぼくがこんな風に笑えたのは一体どれだけ前のことだろう、と思えるような。 「親は、もう何も言わないわ」 「……ぼくと同じだね」 ぼくの一言は暗かったけど、彼女の笑顔は消えなかった。それどころか彼女はにっこり笑ったまま両手をぺたんとあわせて、その動作はとても無邪気で、 「ええ。おんなじ。友達よね!」 「……ともだち?」 「ちがうの? 嫌だって言うなら仕方ないけど……」 ぼくは反射的に、 「う、ううん! いやじゃない! いやじゃないよ!」 「よかった。……私はいつもここにいるから、たまに遊びに来てくれると嬉しいな」 「う、うん」 「私のことはイルジオンと呼んで」 「……変な名前だね」 「もちろん本名じゃないわよ。私の国の言葉で、『幻影』という意味。だってほら、幻みたいなものでしょ。世の中から見て」 「幻? どうでもいい存在、みたいな?」 「そうとも言うわね」 ああなるほどと思った。 ぼくはため息をついて、 「……そこまで思えたら、きっと楽だね。うらやましい」 イルジオンさんは小さくうなずきながら、 「……そうね。楽にはなるわ」 4 ぼくは公園に入っていった。 今日も暑い。夏と呼ぶのはちょっと苦しい季節なのに、シャツが汗だく。 でも平気だ。相変わらず家の中は息苦しいけど、でも平気だ。 だって、あの人に会える。だからこんなにも足取りが軽い。 「こんにちわ!」 手を振って声をかける。 いつもと同じベンチにすわっていたイルジオンさんが立ち上がって、ぺこりとおじぎをする。 「今日は早いのね」 「う、うん。だってほら、昼くらいまでごろごろしてると、その、なんて言うか、話せる時間が短いじゃない? ……あ、ええと、迷惑だった?」 「そんなことないよ。気にしすぎ」 大げさに手をぷるぷる振って否定するイルジオンさん。 「よかった。ジュース買ってきたんだ。ほら今日暑いでしょ。おいし……」 カバンから冷えた缶ジュースを取り出した途端、イルジオンさんの顔がくもった。嘘のように笑みが消えて、白いほっぺたをこわばらせた。 「……ごめん。いらない。ごめんね」 頭を下げる。 「え……ああ、うん」 なにかぼくは悪い事をしたのか? なにもしてない。それなのにどうして。 あの感覚がよみがえって来た。 学校で、ぼくが教室に入った時の感覚。誰かが黙り、誰かが眼を背ける。空気全体が重くなる。ぼくをじっさいに殴るのはほんの一部だけど、「なんか関わりたくない」っていう空気だけは誰もが出してる。 この人も? せっかくともだちになれたのにこのひとも? 違う。違ってほしい。これはほんの一時のことだ。なにかぼくが悪いことをしたんだ。 とにかく、この人が悲しんだり困ったりするところを見たくなかった。どうしよう? ぼくは缶を空け、一気に二人ぶんのジュースを飲み干した。 「ぷっ……うっ……」 「あは、一度に飲む事なんてないじゃない」 笑ってくれた。 ……ぼくは人の笑い顔を見るのに慣れてない。「こいつバカだ」という意味の笑い顔ばかり何年も見ていたから。だから細かい分析はできないけど。でもいまのイルジオンさんは、ちゃんと笑ってる。ほっとした感じだ。 よかった。彼女のとなりに座る。 「それにしても、ずいぶん明るくなったわね」 「え? ……そんなこと……ないと思うけど」 「ううん。最初は恨み言ばっかりだったじゃない。あいつに殴られた、机に落書きされた、みんながぼくを笑ってるって。最近、ぜんぜんないよ?」 確かにそのとおりだ。 心のなかでドロドロしていた、誰にも話せないことをぶつけた。ぶつけても気味悪がられないとわかったら、とまらなかった。でも最初の三日くらいでやめた。 「……どうしてだろ」 「言いたいこと言ってすっきりしたんじゃない? 解決なくても、気が楽になることってあるわよ。友達とか、家族とか、嫌なやつだと思ってても、ちゃんと話してみれば少しくらいは気が軽くなるかも。私はひとりぼっちだったから、ずっーっと明るくなれなかったけど」 変なの。イルジオンさんはぼくよりずっと明るいじゃないか? どうしたらこんな風になれるんだろうって思うのに。 「じゃ、今日は何の話する?」 「前々から気になってたんだけど……その本、何の本?」 「こういう本よ」 イルジオンさんが本を持ち上げて、ぼくの前に広げてくれる。アルファベットがずらりと並んでる。知ってる単語は一つもない。 「うーん……英語?」 「ドイツ語よ」 「どういう話なの?」 「この世界とは別の場所に、すばらしい夢の世界があって、自分はこの世界になじめなくて、居場所がなくて、だから夢の世界に行くんだ、みたいなお話よ」 「へえ……」 その話、わかる。ぼくも行きたい。 「わたしね、この話すごく好きだったんだ。『ほんとの世界』に行ってみたかった」 「ぼくも。……好きだった? 今は好きじゃないの?」 「今も……好きなのかな? そんなふうに見えるよね。毎日読んでるし」 「え、やっぱり毎日同じ本なの!」 「そうよ」 不思議な人だ。同じ本を毎日ずっと読んでるなんて。きっとすごく大切な本なんだろう。あんまり詳しく訊いちゃいけない気がする。でも知りたいし…… 「そんなに面白いんだ……ドイツ語の本でなければ借りるのに」 「日本にもいい本はたくさんあるわよ。探してみたら」 「うん、か……」 一瞬だけ「うん、買いにいくよ」と答えそうになって、あわてて言葉を切った。できないよ、本屋まで行くなんて。みんなが変な眼でぼくをみるんだ。 でも行きたい。買ってきて、本の感想とか話せたらどんなに楽しいだろう。 「……どうしたの?」 ぼくがよほど変な顔をしていたのか、イルジオンさんは小首をかしげた。 「いや……それがね、変なんだ。イルジオンさんとあってから……なんか自分が自分でなくなったみたいで……」 「そうね、リラックスしてるわ。それは嫌なこと? 楽しいこと?」 「え? ……そりゃ、楽しいけど。びっくりするし、何を話せば良いのかわからなくて困るけど、でも楽しい。話をきいてくれるし……」 ぼくはそこで口ごもった。ぜんぜん違う。話をきいてくれるってのは楽しさのごく一部だ。この人通りのない公園で、ベンチにすわって、イルジオンさんといっしょにいることじたいがとても楽しいんだ。理屈を超えた楽しい時間なんだ。そう伝えたかった。でもどうしても言葉がでなかった。 しばらくイルジオンさんも黙っていた。たぶんぼくの言葉を待っていたんだと思う。 やがて朗らかにわらって、 「幸せなら、いいじゃない」 そうか、そう言ってくれたなら。 胸をはれる。 ぼくの体から緊張がぬけた。 「……やっぱり、他のひとたちと違う」 「そうよ」 強い口調で、大きくうなずいて言った。 「そうよ。わたしは、ちがう」 5 眼を覚ました。ふとんをはねのける。部屋の中は薄暗い。起きて窓をあけると、ざあざあという雨音が飛びこんできた。土砂降りだ。 まず思い浮かべたのはイルジオンさんのことだった。これだけの雨では、さすがに公園にはいないだろう。じゃあどこにいるのか。住所を知らない。電話番号を知らない。会う方法がない。……どうしてきいておかなかったんだろう。でも本名も教えてくれないくらいだしなあ…… ぼくはパジャマを着替えて部屋から出る。テーブルのある部屋では母さんが朝ご飯を支度していた。母さんはぼくをちらりと見て、いままでよりもっとひどい、化け物を見る感じで目をそむける。 テーブルの前に座って、ご飯ができるのを待つ。重苦しい時間。会話は全くない。 目の前にご飯と目玉焼きが並んだ。 「……いただきます」 食べようとしたそのとき、ぼくの前に母さんが座った。 「……話があるの」 ひさびさに説教か? やだな。 無視して食べはじめようとした。でもそれより早く母さんが言った。 「ねえ。辛いことがあるなら相談して。お願い。母さんね、あんたを苦しめたいわけじゃないの。そんなに、そんなに嫌なら、学校なんかいかなくていいから。ね、いまはゆっくり休んで。ちゃんと治そう、ね?」 治す? 何を言ってるんだ? 不審に思って母さんの顔を見ると、泣きそうだった。 「ど、どうしたの?」 「どうしたって。最近、丘の公園にいるでしょ。毎日、日が暮れるまでいるでしょ」 「う、うん」 ほんとうは夜も話を続けたいんだけど、夕方になったらイルジオンさんが「もう帰ったほうがいいわよ」って言うんだ。 「見た人がいるの。あんたがベンチに座って一人で喋ってたって。誰もいないのに。いない相手と楽しそうに喋っていたのよ!」 最後の方は涙声だった。 ぼくは椅子を蹴倒して立ちあがった。 なんだって。 走った。靴を履いて飛び出した。傘やカッパを探すことも考えられなかった。たちまち全身がずぶ濡れになった。服が重い。まとわりついてうまく走れない。足がもつれて転んだ。顔面からアスファルトに突っ込んだ。立ち上がった。また走り出した。息があがった。口の中がネバネバして気持ち悪い。どうして運動してこなかったんだろう。どうしてこの程度の距離さえまともに走れないんだろう。鼻と口の中に雨水が流れ込んできた。 それでも走りつづけた。 6 公園に飛び込んだ。砂の上をジャリジャリと走って、あちこちへこんで泥水だらけの地面を蹴って水をまき散らし、ベンチを探した。 毎日来てる公園だった。でも大雨が降ってるだけでまるで別の場所に見えた。黒い砂場が広がっている。バネのついた遊具が、ブランコが、残骸みたいにうずくまっている。 大きな樹は枝を揺らして雨をまき散らしていた。 樹の下にイルジオンさんはいた。 ベンチの上で白く水が弾けてるのに。いつもと同じように座って。本を開いて。 走る力がつきたから、歩いて近づいた。視線をイルジオンさんからそらせない。 イルジオンさんの髪はぬれていなかった。セーラー服も、手も、足も、雨が当たっていなかった。 ふとイルジオンさんがこちらを見る。数メートルの距離。まず驚きの表情。あきらめを含んだ、弱々しい微笑みにかわった。白い顔には一滴の雨粒もなくて。すべての雨が体を通りぬけて。そこには何もないみたいに。 「ばれちゃったね。残念」 「イルジオン、さん……」 「今日は、ちょっとベンチ使えないね」 「い、イルジオンさん、母さんが、イルジオンさんのこ、ことを、い、いないって。誰もいないって」 イルジオンさんは本を抱えてたちあがった。一歩ずつちかづいて、ぼくのすぐ前までやってくる。たった2、3歩の距離でぼくたちはむかいあった。 「そうよ。わたしは、もういないの。……どう説明すればいいのかな。学校でいろいろあって、この世界がすごく嫌で。だから世界から出ちゃったの。そしたら別の世界に行けると思ったの。でも、行けなかった。世界から少しだけはみ出した場所に、ずっとしばりつけられたの。死んだこの公園から一歩も出られない。しかも、みんなに私は見えない。触れない」 「じゃあ、どうしてぼくは」 「あなたは、世界のことを嫌いだったから。じっと眼をこらして、世界の外を見ていたから。だから見えたの」 「これからもそうする! ずっと話し相手になるから!」 ぼくは叫んだ。イルジオンさんの手を取ろうとした。できなかった。手と手がすりぬけた。ぼくがつかんだのは雨だけだった。手が、体の奥深くにもぐりこんでいった。ただ濡れるだけ、他の感触はなにもなかった。 足下から背筋を衝撃がはしった。 眼で見るだけじゃ駄目だった。でも今わかった。実感できた。 この人は、「いない」んだ。 「うれしいけど、もうお別れよ」 「どうしてさ!」 「だってずいぶん心が軽くなったでしょ? 明るく話せるようになったでしょ? 前ほど、世界を憎んでないよね」 ぼくは息を吸い込んだ。 思いきり言ってやるつもりだった。 「ぜんぶ嘘。ぼくはイルジオンさんと一緒にいるのが好きなだけ。それだけが楽しくて、あとの人間は全部大嫌い」 そう言ってやるつもりだった。世の中の悪口なら何時間だって言えるはずだった。ひとりだったころ、ずっとそんなことばかり心の中で並べていたから。 「ぼくも死んでそっちに行くよ」 そこまで言うつもりだった。 そのはずだったのに。口を開いたその瞬間、いえなくなった。ぼくはただイルジオンさんをみつめた。 たった一歩の距離で、大きなぱっちりした眼をぼくに向けていた。祈るような表情。眼を合わせているだけで心がかきむしられた。胸の中で得体の知れない痛みがふくれあがった。 ぼくの口から、思ってもみなかった言葉があふれた。 「……楽しかった。楽しかった! たのしかった! わかってくれて! いっしょに泣いて、笑って……そんなことをしてると、だんだんいやな気持ちが減っていって……こんなに、たのしいことが、このよにあって。しんじられなかった! でも、ほんとなんだ。もう、みんな死んじゃえって思えないんだ! ……ちょっとはいいかなって……そんなふうにおもってしまうんだ!」 言葉は何度も途切れた。言いたくなかった。でもどうしても嘘をつけなかった。 「……あ!」 ぼくの言葉が悲鳴にかわった。イルジオンさんの体が半分透けている。自分の気持ちを認めてしまったから? 「世界の外」が見えなくなってる? 「いやだよ! いなくなったらいやだよ!」 「だいじょぶ。話ができないだけで、ずっとここにいるから。あなたのことも忘れない 。楽しみがひとつ増えたわ。……ね、一つだけお願いがあるの」 「何でもする!」 イルジオンさんは黙った。口を閉ざして一歩、二歩遠ざかる。 そのまま時間が過ぎた。イルジオンさんの表情はこわばっていた。ぼくも喋ることができなかった。風が頭上の樹を揺さぶる音、雨がベンチを叩く音だけが響いた。 たぶんせいぜい五秒くらいだったろう。でもぼくは耐えられなかった。何をいうのか、という恐怖が、イルジオンさんの表情がとても辛そうだという思いが、ぼくの胸を締め付けた。だめだ、何かいおう、そう思って口を開いた瞬間、イルジオンさんは言った。 「……私も楽しかったから。あなたと話せて、とても楽しかったから。だからあなたはそっちの世界を好きになって。私みたいにならないで」 「わかった。約束する! ぜったい守る」 「よかった……」 その声は。確かに喜びの声だったけれど。 明るく、聞いているものまでうきうきさせる声じゃなくて。 泣く寸前で、やっとこらえているような。 その顔は、いままでぼくが見てきた、はじけるような笑顔じゃなくて。 不器用で、弱々しくて、唇や頬をじっと見ないと笑顔だとわからないような。 そのまま手を差し出してきた。 ぼくはその手をにぎろうとした。今回もつかめない。指が手を通り抜けた。でもイルジオンさんも握り返してきた。これは確かに握手だった。 イルジオンさんの姿がぼやけ、雨にとけるようにして……消えた。 ぼくはだらりと手を下ろし、その場に立ち尽くしていた。 体の震えが止まらなかった。誰の姿もないベンチを見つめ続けていた。 ベンチは青くて、プラスチックで、飲み物の広告が描いてあって。 よく見るとはしっこが割れていて、みすぼらしかった。 7 誰かがぼくの名を呼んでいた。 我にかえって、声のするほうへ振り向く。 母さんだった。傘をさして駆けてくる。ぼくのそばに来て、手をぎゅっと握ってきた。 「しっかりして! うちにかえりましょう! ね、大丈夫だから! 大丈夫だから!」 顔を見た。雨と涙でぐしゃぐしゃになっている。 「ね、うちにかえって! ねえ!」 いやだ。そう言いたかった。あんたに何がわかる。そう言って突き飛ばしたかった。 でも、ぼくは約束したんだ。 我慢した。母さんの持っていた傘に入る。 「かえるよ」 ぼそりと、それだけ言った。 母さんが声を上げて泣き出した。まともに聞き取れない言葉を並べた。ぼくは母さんの手をとって、公園の外へと歩き出した。 激しい雨の音も、耳元で叫んでる母さんのことも気にならない。ぼくの心にあるのは違うこと。 ……ずるいよイルジオンさん。あんなこと言われたら絶対逆らえないじゃないか。 ……でも。守るよ。破ったら、きっと、とっても悲しいだろうから。 公園を出て坂道に入った。家がずらりと並んで下まで続いてる。この先はぼくの家。嫌いだった家。一歩ずつ家へとおりていく。 ふと視界が歪んだ。頬を熱いものがつたっていった。雨に混じってすぐに消えた。でもあとからあとからあふれてきた。 むりやり顔を上げた。胸を張った。黒く立ちこめる雲に向かって、殴りつけてくる雨に向かって。 ……ぼくは、約束したんだ。 8 その後、彼女を見たことはない。 でも、ぼくはいまでも思い出す。つらい時、悩んだ時、必ず思い出す。 いまもベンチに座ってたった一冊の本を読み続けている友達のことを。 けしてやぶれない約束のことを。 あとがき ・みなさんはじめまして、増田淳と申します。 「夏の終わりのイルジオン」いかがでしたか? ある日うかんだタイトルを、短編小説に膨らませてみました。 心のどこかにのこる話であったらいいな、と思います。 ヒロインに眼鏡をかけさせるべきかギリギリまで悩んでいたことは内緒です。 |
||